佐々木八郎『藝道の構成』

わたくしは地唄舞を生業としているが、この地唄舞は、能からきているともいわれている。能といえば、世阿弥を想起するかもしれない。世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。世阿弥の『花伝書』には、物真似ー写実をもって能楽の肝腎であることを認めていた。「物真似の品々筆につくし難し。さりながら此道の肝要なれば、およそ何事をも残さずよく似せんが本意なり」「しかし、世阿弥は写実一点張りに終始したのではなかった。」  「幽玄こそは諸道に於ける最上のものであって、しかも観世流の能楽に於てはこの幽玄をもって風体第一と認めた。」「一切ことごとく物真似は変わるとも、美しく見ゆるひとかかりをもつこと幽玄のたねと知るべし。二曲(舞と歌)をはじめて、品々の物真似に至るまで、姿美しくばいづれもいづれも上果なるべし。…見る姿の数々、聞く姿の数々のをしなめて美しからんをもて、幽玄と知るべし。世阿弥は、写実の上に、更に美の色調がこれを覆うているのを以て幽玄であるとし、これを能楽の本質とした。人体の幽玄、言葉の幽玄、音曲の幽玄、舞の幽玄などを挙げ、いづれもそれは美しさや優しさを旨とするものであると説いて、だから、恐ろしい鬼に扮しても、そこに美しい風趣があるならばそれは鬼の幽玄であるといっている。唯美しく柔和なる体、幽玄の本体なり。何と見るも花やかなる仕手、これ幽玄なり。」この極意、地唄舞にも通ずるなり。