2006年4月から6ヵ月もの間、箱根ラリック美術館で、日本独自の金唐紙を背景にルネ・ラリックの作品が飾られたそうです。現在、この金唐紙は「旧岩崎邸」の壁面を飾っています。金唐紙はヨーロッパで生産されたギルトレザーをルーツとしているとのこと。17世紀半ばにオランダ東インド会社を通じてもたらされた革製の壁面装飾は、日本で和紙を素材とした金唐紙として製造されるようになり、その後、パリやウイーンでの万国博覧会などで高い評価を得て大量に輸出され、ヨーロッパ王朝貴族の城や宮殿にも広く使用されたそうです。ルネ・ラリックの作品の中にある文様は、明らかに、中国から伝来した日本の文様から影響を受けたであろう作品が多くある。壁面、香水瓶と、その所在は多様なれど、そこに佇む文様は、その場所で輝き、舞い踊り続けております。

地唄舞は、回る動作が頻繁に出てくる。座敷をすり足で回る。お扇子は円を描くように回しなさいと、師匠からよく言われたものだ。「戸井田氏は、貝を独楽のように回す呪術があって、それが子供の遊びに変化したものがベイゴマではなかったか、と考える。すなわちここで彼は、ぐるぐるまわるものへの人間におよぼす特殊な心的効果をみようとしている。そう考えれば、風車も、座敷でぐるぐるまわって目を回す子供の遊戯も、カゴメカゴメも、フィギュアスケートのスピンも、能の緩やかにまわる舞も、歌舞伎の回り舞台というような構造も、すべて一種の酩酊状態をつくりだすことによって非日常的な聖なるなにものかとの連続性を回復しようとする原初的な身振りと関連していたことが解ってくる。沖縄の聖地の巻貝も、山伏のホラ貝も、琉球から出土する人骨がしばしばゴホーラという巻貝を切った腕輪をしていることも、すべて人間が巻貝をことさら重要視していたことのあらわれであるとすれば、それは必ずどこかで、人間がぐるぐるまわるものの精神におよぼす特殊な作用をしっかり認知していた事実と重なりあっているのだ。」地唄舞はまわる、まわすという動作を重要なものとして捉え、大切にしている側面を鑑みれば、戸井田氏のこの指摘を意識せざるを得ないのである。そして、大きく頷いてしまうのである。まわすという動作が、精神的なものに作用するならば、どこか祈りともとれる呪術的要素を含むならば、地唄舞は、他の踊りとはやはり異にしていると確信するのである。舞うことで穏やかな気持ちになる、心が落ち着く。そうでしたか。この本は、その答えを教えてくれた。

盆踊り · 17日 7月 2023
倉林正次「民族の舞と踊り」 「民俗芸能の踊りの一つの柱、念仏踊り。平安時代、空也上人が念仏の功徳を説き衆生強化のために行った鉢叩念仏に始まると伝え、京都の空也堂の寒行、福島県河沼郡東村の空也念仏などにその流れを留める。念仏聖たちは、次第に門付芸人に零落、泡斎念仏、願人坊、葛西念仏などその徒は諸国を巡歴したが、大阪住吉神社に残る住吉踊り、埼玉県近縁に分布する万作踊りなどその念仏芸の系統をひくものである。大念仏、じゃんがら念仏、題目踊り、六斎念仏、念仏けんばいなど、いずれもこれら聖たちの持ち回った芸能の伝播土着した念仏芸である。しかし、これら念仏踊り系統のものをみると、それらの催される時期はそのほとんどが旧七月、あるいは八月のいわゆるお盆の時期である。これはまた盆踊りの季節でもある。各地に定着する念仏踊りは本来の宗教的性格から離れて、むしろ習俗的行事性の中にその基盤を見出しているといえる。念仏踊りにしろ、あるいはそれから派生した盆踊りにしろ、それが民衆芸能として根をはやし枝を広げるためには、民衆の生活の季節と無関係ではありえなかった。祖先以来伝襲されてきた生活のリズムの中に、その生息の基盤はあった。」お弟子数名と成城学園前駅前の盆踊りに参加した。とにかく、楽しかった。2時間休むこともなく、ひたすら踊っていた。踊っていると、笑顔になる。知らない人とも話し、笑う。そして、一緒に踊る。何十年ぶりだろうか。そうか。衆生強化。自分自身の道のための法は『楽しむ』ということだ、とまたもや再確認。楽しかった。

09日 7月 2023
『バカの壁』の養老孟司先生。鎌倉在住で箱根に昆虫館たる別荘を持っていらっしゃる。最近のわたくしの往来と似ている。ありがたき。まさか、こちらの著書に芸事について書かれているとは全く予期していなかった。「日本の古典芸能を習ったら、本当の個性がどういうものか、よくわかります。なぜなら、師匠のするとおりにしろと言われるからです。茶道も剣道も同じです。謡を習うなら、師匠と同じように、何年もうなる。同じようにしろという教育をすると、封建的だとか言われましたから、こういう教育は随分廃れてしまいました。でも十年、二十年、師匠と同じようにやって、どうしても同じようになれないとわかる。それが師匠の個性であり、本人の個性です。そこに至ったときに、初めて弟子と師匠の個性、違いがわかる。そこまでやらなきゃ、個性なんてわかりません。他人が真似してできるかもしれないことなんて、個性とはいえませんから」地唄舞を習い始めたころ、姉弟子と二人で、真夏のクーラーのない6畳の和室で、1時間ひたすら歩くというすり足の練習をした。歩くという動作である。日常行っている動作が、難しい。師匠のように、足を動かせない。楽にならない。考えすぎると、足が前に出ない。しかしながら、頭を使って、意識する。ほかにどうすることもできない。ずいぶん時間を要した。日常の歩くという動作ひとつに、長い年月を費やした。頭と意識をやめるに至ったとき、師匠とはちがった、わたしという個体がつくりだす、すり足が完成した。合掌。

 「能の静の美学、無表情の美学は、それ自体は一種の虚無を表しているようにみえるが、それはけっして無気力を意味するものではなく、ひとつの迫力を秘めた禅の明るさが支えとなっている。能面が死のような静の表現の中に、かすかな、しかも決定的瞬間の動きを秘めていることは、能の幽玄の美学をそのまま象徴しているといえよう。」...


07日 4月 2023
わたくしは地唄舞を生業としているが、この地唄舞は、能からきているともいわれている。能といえば、世阿弥を想起するかもしれない。世阿弥の能は観世流として現代に受け継がれている。世阿弥の『花伝書』には、物真似ー写実をもって能楽の肝腎であることを認めていた。「物真似の品々筆につくし難し。さりながら此道の肝要なれば、およそ何事をも残さずよく似せんが本意なり」「しかし、世阿弥は写実一点張りに終始したのではなかった。」  「幽玄こそは諸道に於ける最上のものであって、しかも観世流の能楽に於てはこの幽玄をもって風体第一と認めた。」「一切ことごとく物真似は変わるとも、美しく見ゆるひとかかりをもつこと幽玄のたねと知るべし。二曲(舞と歌)をはじめて、品々の物真似に至るまで、姿美しくばいづれもいづれも上果なるべし。…見る姿の数々、聞く姿の数々のをしなめて美しからんをもて、幽玄と知るべし。世阿弥は、写実の上に、更に美の色調がこれを覆うているのを以て幽玄であるとし、これを能楽の本質とした。人体の幽玄、言葉の幽玄、音曲の幽玄、舞の幽玄などを挙げ、いづれもそれは美しさや優しさを旨とするものであると説いて、だから、恐ろしい鬼に扮しても、そこに美しい風趣があるならばそれは鬼の幽玄であるといっている。唯美しく柔和なる体、幽玄の本体なり。何と見るも花やかなる仕手、これ幽玄なり。」この極意、地唄舞にも通ずるなり。

06日 3月 2023
最近、また、犬を飼い始めた。わたしは、犬が大好きである。自然体だ。そんな愛犬をドックトレーナーに預ける。人間が飼いやすいよう躾をするためである。つまり、人間社会に犬の行動を適合させるということだ。このような人間の視点から物の捉え方、発想は、人間を取り巻く環境に対しても当てはまることかもしれない。この物の見方のベクトルは、果たして、本当の意味で、いわゆる人間がいう自然環境を考えることになるのだろうか。自然環境という言い方そのものが、そもそも人間がその上に立ち、つまり、その環境を人間が支配下に置いているという態度であるが故の発想ではないか。たとえば、「自然への働きかけという方向性を逆転して、自然の多様な声に耳を傾けること、語りかけてくる自然という立場から物をみる」人間と自然を同じ環境の中に置き、矢印の向きを変えてみる。「共生の原点はそこにあるのではないか」その視点こそが大切ではなかろうか。「内なる自然に目覚め、自然の危機は自らの人間性の危機と考えることが重要である。語りかける自然を通じて、自己の身体と世界が同じものから紡ぎだされていることを自覚し、自らのほころびは宇宙や世界のほころびとみる。」う~ん。無邪気にワンワン吠える犬をみながら、利己主義な私を省みる。そんなことを考えた。

結婚に対する考え方、形は、今の時代、多様である。紙一枚の単なる民法上の契約にすぎない。成田悠輔氏の夫婦形態も珍しくはない。そう。この結婚観や形は、昔とは大きく変化している。とはいうものの、この澁澤龍彦氏と澁澤龍子夫人(以下、敬称省略)との結婚は、女という観点から、わたしには、羨ましく感じるのである。なぜなら、わたしが考える『幸せな女性像』というものが、澁澤龍子と同じだからだ。その澁澤龍子が描く女性像、それが、澁澤龍彦が描くそれと一致する。そして、それをそのまま龍子が生涯かけて演じ、全うする。そして、澁澤龍子は、それを言い放つ。なんとも、女の強さを感じるのである。『愛』が深まれば、『強さ』が増すというプラスの美しい相関関係があるようだ。

能の舞台は、もともと屋外に作られており、現在のように舞台と観客席が大きな一つの建物の中に入った「能楽堂」という形になったのは明治以降のことだそうです。それにしても、この屋外で舞うというのは、非常に、気持ちがよいものです。雲の動き、風、光、鳥の鳴き声を感じながら、舞の動きがそこに溶けこんでいきます。日常のストレスがゼロ。人間も自然の一部なんですね…。

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